最近、「言葉」というものについて、改めて考えることがあります。
私はこれまで、いろいろな事業に携わりながら、長い間、人というものを見てきました。
その中で、とても興味深く、そして時には怖いと感じることがあります。
それは、
「誰が言ったのか」が、いつの間にか入れ替わってしまうことです。
日本語は「主語」がなくても成立する
英語では、
“I think ...”
“I heard ...”
“She said ...”
というように、基本的に主語があります。
「私はそう思った」のか。
「私はそう聞いた」のか。
「相手がそう言った」のか。
比較的はっきりしています。
ところが日本語では、主語を省略しても会話が成立します。
そして私は、人と話していて時々気になることがあります。
たとえば、
「○○さんが……」
と、相手の名前から話が始まる。
ところが、よく聞いていくと、
本当に○○さん本人がそう言ったのか。
その人が○○さんの気持ちをそう解釈したのか。
誰かから聞いた話なのか。
そこがわからないことがあります。
私は、ここをとても大切にしています。
「私はそう思った」が「相手がそう言った」に変わる
さらに興味深いのは、人間の記憶です。
最初は、
「私は、○○さんはこう思っているのではないかと思った」
という自分の解釈だった。
ところが時間が経つと、
「○○さんが、こう言った」
に変わってしまうことがあります。
私はこれを、人と関わる中で何度も感じてきました。
必ずしも、嘘をついているわけではないのだと思います。
本人の中では、いつの間にかそれが「事実」になっている。
ここが、とても興味深いところです。
脳科学を学んで印象に残ったこと
以前、MITで脳科学について学んだ際、自己と他者を脳がどのように認識するのか、という話がとても印象に残りました。
自分について考えることと、他者について考えることには、脳の処理に重なる部分があります。
一方で、脳には自己と他者を区別する働きもあります。
私はこの話を学んだとき、それまで人を見ながら感じてきたことと重なる部分があるように思いました。
人間は、
事実をそのまま保存しているわけではない。
自分が見たこと。
聞いたこと。
感じたこと。
考えたこと。
そして相手の言葉。
それらが混ざることがあります。
だからこそ、
「誰が言ったのか」
という主語は、とても重要なのだと思います。
事実・解釈・推測を分ける
私は仕事でも、人との関係でも、できるだけこの3つを分けるようにしています。
事実。
自分の解釈。
自分の推測。
「○○さんがこう言った」
これは事実として確認できるかもしれません。
「○○さんは、きっとこう思っている」
これは自分の推測です。
「○○さんの言葉を、私はこう受け取った」
これは自分の解釈です。
似ているようですが、まったく違います。
ここを混ぜてしまうと、話がいつの間にか変わってしまいます。
そして、それが人間関係や仕事のトラブルにつながることもあります。
AI時代だからこそ、もっと重要になる
そして今、AIを毎日のように使うようになって、この問題はさらに重要になると思うようになりました。
AIは文章を書いてくれます。
整理もしてくれます。
要約もしてくれます。
大量の情報を短時間で処理してくれます。
とても便利です。
でも、AIに渡した情報そのものが、
事実なのか。
自分の解釈なのか。
誰かから聞いた話なのか。
そこが曖昧だったらどうでしょう。
AIは、こちらが渡した情報を材料にして考えます。
だからAIがどれだけ進化しても、最初に情報を渡す人間の側が曖昧であれば、そこから先も違う方向へ進んでしまう可能性があります。
AIに任せる。でも、AIには委ねない
私は最近、このことを強く感じています。
AI時代だからこそ、
主導権は自分が持つ。
AIに任せられるところは、どんどん任せればいい。
文章の構成。
情報整理。
調査。
アイデア出し。
私はこれからもAIを使います。
でも最後に、
「これは本当に私が言いたいことなのか?」
「これは事実なのか?」
「この文章に、私の心は入っているのか?」
そこを確認するのは、自分です。
AIは文章を書くことができます。
でも、
自分の魂や心から出てくるものまで、AIに任せてはいけない。
仕上げは、自分しかできない。
私はそう思っています。
便利になればなるほど、
「私はどう思うのか」
が大切になる。
AIに任せる。
でも、AIには委ねない。
それが、これからAIと付き合っていく上で、とても大切なことなのではないでしょうか。